Kangaroo Notebook

I just…interested in the ecological character of the kangaroo.

文化大革命中の中国では「革命のシンボルである赤が止まれを意味するのはおかしい。赤信号を『進め』にしよう」という案が紅衛兵によって提唱されたが大混乱が予想されるため却下された。映画『ラストエンペラー』では青信号から赤信号に変わって人が進むシーンがあるが先述の通り実際はなかった。

信号機 - Wikipedia

運転免許については信号機の色が弁別しづらいために取得できないという誤解があるが、実際には運転免許試験場で石原表でなく、赤、黄、青の3枚のプラスチック板の色を弁別できれば、運転免許を取得できる。これは強度の色覚異常であっても問題なく答えられる試験である。

色覚異常 - Wikipedia

もちろんすべての作品がですね、そういう機能を果たしているとは言いません。もちろんそんなことはないんです。逆に、わりに予測可能な、つまり自分の未来をですね、幻想ででもいいから予測しようという願望と結びつく文学もたくさんあります。だけど別のですね、ある種の文学というものは、大きな数の読者は獲得できません、でしょうけれども、やはり本質として、人間をむしろ不安に陥れるというか、欠乏した自由の方にですね、人間を追い込む力をもった文学というものもある。これはまあ、僕なんかは文学の本質だと思うし、だからこそですね、文学という、ほとんどそれ自身では役にも立たないはずの文学が存在理由をなおかつもちうると。ただそこにあるんじゃないかと、いう気がするんです。で、大体、存在するいろんな機能の中でですね、ほとんどのものがいかに未来を予測するかというかたちで、積み上げられてきてますね。自然科学というものはほとんど、予測可能といいますか、予測する方向に働いてます。大体いろんな法則というものをですね見極めて、すべてを因果関係の上に組み立てて、自然という過程でもって将来を予測すると、いうことがまあ自然科学の原理ですから。今我々の生活をおおってる膨大な、まあ科学的成果ですね。そういうものを見ましても、ほとんどの人間の嗜好であるとか努力であるっていうものが、ほとんどがそういう非常に充足した独房といいますか、法則の方向に人間を安定させていくという作用をもっている。それに反して文学というものは、あくまでも人間をもう一度欠乏した自由の方に引き戻すという機能を、もっているからですね、まあ現代、自然科学に比べると非常に実用性が低い。ゼロですね。で、実用性がほとんどない文学が、いまだに存在理由をもちうる唯一の理由じゃないかと、いうふうに思うんです。

安部公房:講演 小説を生む発想 「箱男について」

ということは、いかに自分を予測可能なところに置きたいか、それはですねやはり競争社会ですから、大体において予測可能なんですけれどもその予測の幅があってね、さらにそれを縮めたいという願望がある。それと同時にね、この頃はまあ脱サラリーマンとかね、蒸発とかいってね、そういうものから脱出したいという願望と、その両方がせめぎ合ってるのがまあ日常だと思うんです。で、それがですね、いちばん極端に予測を拒否、ある状態つまり自分の先がもう大体予測されて、その予測を拒否する場合にですね、人間っていうのは本当いうと自殺するということがあるんですね。自殺というのはしかしこれ実際あの世というのはわかりませんからね、予測できないとも言える。しかし、明らかに死というものははっきりしてますからね。予測可能でもある。だから予測不可能ということと予測可能ということは実際にはですね、ある意味で、どっかでつながってるひとつのものでもありうるんですけども、まあ一応これを区別して考えた場合文学作品とは何かというとですね、自分自身の日常生活から起きうる予測可能な領域ですね、これにですね、さらに深いメスを入れて、ある意味でわかってたはずの未来をですね、様々に変形してみたり違う可能性をそこに与えてみたり、で、実は自分自身を予測不可能な状態に追い込む効能が文学に求められている。だからある意味でですね、占いとちょうど対照的な機能として文学というものが求められている。これはですね、ある意味からいうと不自由、欠乏した自由に多少でも身を置くということがですね、文学に対する、まあ文学だけじゃない芸術に対する願望だと、いうふうにも考えられるんじゃないかと。

安部公房:講演 小説を生む発想 「箱男について」

で、それじゃあそういう文学作品ってなものはいったい、本当の意味で我々にとってどういうものか。そんな不可解なものですね、どういうものかっていいますとこれもまあ、ひとつの解釈に過ぎませんけども、まあ人間というものはですね、完全に満たされた独房というものがあって、それから完全に欠乏した自由というものがあって、どちらを選ぶかって聞かれたら、よほどホルモンなんかのバランスが違う人だったらですね、場合によっては非常に充足した独房を選ぶということがあるかもしれないと思います。しかしですね一般的には非常に欠乏した自由の方をむしろ選ぶんじゃないかと思うんです。で、その欠乏した自由とですね、充足した独房の根本的な違いは何か。充足した独房というものはですね、あらゆる時間がですね、予測しうるということですね。それは今現在というものはですね、必ず、もちろんショック死とかいろんなことがありますからね、あらゆる未来が予測可能ではありません、突然ショック死することもあるから。だけどもね、一般的にはですね、必ず独房というものの延長上に予測できるんですね。自分が先、自分の未来というものがほとんど予測できる。ところが欠乏した自由というものはですね、何を意味する何を欠乏かと言いますとね、次の瞬間というのを全然予測できないっていうことね。で、まあそれが不安につながるわけです。だけど人間の中にはね、次が予測できる、次が見えてしまうっていうかな、見えてしまったらですね、実際にはもう非常に耐えられない。

安部公房:講演 小説を生む発想 「箱男について」

(…)まあもちろん、これはひとつの解釈であってですね、文学作品は作者といえども全面的な解釈はできない。また全然他の解釈が成り立ちうると思います。できあがったときには。で、まあ今日ちょっとお話したかったのは、要するに文学作品というものの発想、つくられる過程というものが決して理詰めでですね、だからよくね、こんなこと言うと悪いんですけど日本映画がね、まあもちろんおもしろいと思う人は別ですよ、だけど非常につまらないと思う人のために、僕はつまらないと思うんで、つまらないと思う人のために種明かししますけども、映画の脚本をつくるプロセスというのはね、まさに僕が言った文学のつくり方と逆なんです。まず骨組みをこさえてね、それに肉をつけていくというスタイルで、これ常識で通用してるんです。まず箱書きと言いましてね、大きな枠を決めるんです。ここでラブシーン3分、ここでごはんを食べる、誰々はちょっと不満の意を表する。というようなこう、あれがあるわけです。そこにね、今度はね、後でだんだんと肉づけしていくわけ。やっぱりここでもう少し悲しくしようとかね、ここもう少しエロが足らんぞ、とかなんとかいうことで肉つけていくわけ。この発想でいきますと最初にある骨組みっていうものはね、まず絶対に不可解なものはないんだよね、全部割り切れちゃう。で、日本映画で不可解な部分があるとしたらこれはミスでね。誤解による不可解さであって、本来書いてる人はみんなわかってるんですね。それからもうひとつ、一種の集団制作的な形態を映画はしばしばとります。で、ひとつ僕はあの、まあ中国なんかでいくところの集団制作、まあこれはソ連でもね、昔はあったんだけど、そういうことを言われたことがあります、それがいちばん正しいつくり方。しかし絶対にそういうことはないですね。集団創作的になると全部わかっちゃったところでしか物事を進めないんですね。わけのわからない状態じゃディスカッションの過程で、必ずわからない部分が洗われてくるんですね。洗濯されてなくなっちゃう。しかし本当にですね、何かしら作品というものが人間の心を打つとしたらですね、整理されたテーマであるとか何とかという以前の問題なんですね。だから、日本映画的なつくり方はですね、これはもう大体、絶対におもしろいものができっこないんですよ、あのつくり方をしてる限りはね。

安部公房:講演 小説を生む発想 「箱男について」

ところがですね、どうも一般に、文学だけじゃなくですね、まあ芸術的な発想っていうものをまずテーマとか主題っていうものが先にひとつあって、あるいはストーリー、プロットですね、物語というものが先にあって、そしてそれをだんだん肉付けして膨らませて作品をつくるというような、誤解をですね、していらっしゃる方が非常に多い。で、批評する場合もですね、まずテーマとかそういうものを先に抜き出して、それから批評すると。読み方もですね、そういう読み方をする方が意外といらっしゃる。これはもう大変間違ったことで、それで済むなら何も小説にしなくてもいいんですね。論文や何かで済むことで。そこら辺に芸術の持っている特別の性質がある。だから、自分についてもいろんな批評家がまったく相反した根拠で、まあAという根拠で褒められBという根拠で貶されるんなら別に当たり前のことですけども、Aという根拠で褒められ全然反対のBという根拠で褒められたり、あるいは反対にAという根拠で貶されまったく反対のBという根拠で貶されたりということはザラにあるわけですね。そういう場合には自分で作品がうまくいったなと思うんです。だから作者というものは意外とね、自分の書いたものについてそれほど目覚めた状態にあるわけじゃなく、また目覚めてない状態でないと捉えられないある世界というものがあるんで。

安部公房:講演 小説を生む発想 「箱男について」

それはともかく、民主主義の原理ってまあ飛躍しますけどね、原理というものをとことん突き詰めてみると意外とね、箱男になってしまう。全員がね、なってしまうという状態。で、全員がですね、やはり、その登録を拒否してね、偽物になってしまうということですね。徹底していけば。だからそら例えば学校は、教育機関はあっていいんですよ。しかしそれいちいちね、卒業証書とかね、なんとかっていうものは廃止してしまう。というような状態が来ることがやっぱりいちばん原理的には理想ですよね。ところがそういう状態にですね、人間がつまり、本当にどこまで耐えうるか。人間というものの構造がね、いったいそこにどこまで耐えられるんだろうかという問いかけに、知らず知らずのうちに箱男の問題がですね、到達していっていったということに気がついたんです。

安部公房:講演 小説を生む発想 「箱男について」